どのような技術を研究対象に選ぼうと、それは研究者の自由である。技術といわず、どのような分野を研究対象に選ぼうと、それは研究者の自由である。もちろん、このような前提は正しい。ただし、そこには前提がある。それは「公共の福祉に反しない限り」ということではないかと筆者は考えている。
日本国憲法22条1項は「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」と定めている。書かれた文言からは本項において職業選択の自由を保障しているが、これは通常は営業の自由も保障していると解されている。それは、職業選択の自由を認めても、営業の自由を認めなければ、職業の選択肢が失われるからである。
そう、現代の日本においては、職業として行われる様々な営為は自由なのである。ただしそれは条文の文言からも明らかなように、「公共の福祉に反しない限り」においてなのである。
では、「公共の福祉に反しない限り」という限定は、具体的に何を可とし何を不可とするのであろうか。実は、可と不可の協会が明確に定まっているわけではない。少なくとも筆者はそう考えている。この境界は時とともに変遷する。
例えば、環境規制を考えてみよう。これは営業行為に対する規制だ。本来自由であるはずの営業行為に対し、人の健康被害の防止や環境の保全といった観点からその自由に制約を課すわけだ。
人の健康に被害をもたらす行為や環境の保全に反する行為が、公共の福祉に反するとして規制の対象にされている。こうした環境規制は時代を下るに従い強化され、またその対象範囲も拡大されている。これは、公共の福祉に反する行為の対象が広がっていることを表す。
こうした「公共の福祉反しない限り」に係る議論は様々に展開されており、本来は片手間に論じられるような内容ではない。本稿においてもこれ以上の深入りは避けたい。ただ、強調したいことは、本来自由とされる職業として行われる営為には当然に制約が存在し、さらにその制約は時とともに遷ろう。
学問の自由?
憲法23条では「学問の自由は、これを保障する」と定めている。これを読むと、学問の名の下に行われる行為は自由であり、何ものにも制約されないと考えられるのではないだろうか。22条では挿入されている「公共の福祉に反しない限り」という制約も、23条では見られない。
こうした行為の典型例として研究を考えれば、研究の実施は自由であり憲法も認めているのではないか。であるにも関わらず何故ELSI的な視点からの、研究に対する制約ともいえる行為の必要性を検討しなければならないのであろうか。
憲法22条は、本当に制約なくどのような研究でも行うことを保障しているのだろうか。現実は異なる。例えば「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」という法律が2001年に施行されている。同法ではその3条で「何人も、人クローン胚、ヒト動物交雑胚、ヒト性融合胚又はヒト性集合胚を人又は動物の胎内に移植してはならない」と規定する。現実には、学問の自由は制約を受けているのである。
結局のところ「公共の福祉反しない限り」との制約は「営業の自由」だけではなく、「学問の自由」に対しても存在することになる。たとえ学問の自由を規定する憲法23条において文言上制約が課されていなくとも、我々の社会は制約の全くない学問の自由を認めてはいないのである。
無論こうした議論も片手間に論じられるような内容ではない。本稿においてもこれ以上の深入りは避けるが、制約を受けているという事実は重く認識する必要がある。
結局は社会の持つ価値意識が決める
「学問の自由」では、制約の例として「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」を挙げた。また「営業の自由」では、環境規制を制約の例として挙げた。環境規制は一般には法律として定められる。どちらも制約の例として法律の存在を示したが、制約とは法律に限るものなのだろうか。
法律とは社会の決め事である。一方で、社会の決め事は法律だけではない。社会を構成する人々が持つ問題意識や規範、常識といったものも社会の決め事の一翼を担うと筆者は考えている。多くの形態を持つ決め事の中で、法律は最も堅固な決め事といえるのだろう。
もちろん、こうした決め事は時とともに遷ろう。また、この地球上に社会は様々に存在し、決して一つではない。社会が異なれば、決め事も異なる。「公共の福祉に反しない限り」とは、こうした社会の決め事の境界を表す概念であり、これ自体が具体的に概念以上の何かを示すわけではない。
多くの社会が存在するこの世にあって、森羅万象に係る「公共の福祉」に反しない具体的な境界を事前に定めることはできない。この境界は、普遍的な存在でもなければ、不変的な存在でもないのである。結局のところ、その時々の社会が持つ価値意識によって定められるもの、というのが筆者の理解である。
それぞれの社会にあって、その個々の社会における正しいこととそうでないこととの境界は、社会における価値基準を基に感じ取るしかない。法律という堅固な制度で定められている場合には、その境界に迷うことはないだろう。
しかしながら、法律は社会の価値意識が相応に固まった後に、法律という堅固な枠組みで策定することが必要、かつ、可能である決め事でなければ、その決め事が法律という形をとることはない。そう、宝利乙ではない社会の決め事は多々存在し得るのである。これがELSI的視点からの検討が必要な所以である。